2107 注解書なんて必要ない?

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聖書にはたくさんの注解書が出されていますが、注解書は聖書と違い、霊感された権威ある神のことばではないため、聖書のように”絶対的に正しいもの”と考えるべきではありません。また聖書の最大の注解書は聖書と言われるように、何よりもまず、聖書と聖書を照らし合わせることが重要です。

しかしそうはいっても、注解書が必要ないかと言われたら、そんなことはありません。ここで、聖書だけを見ていては、理解するのが困難な箇所の例を出すことで、注解書をはじめとした”聖書以外の文献や情報”が、時に聖書を理解するのに必要不可欠なものであることについて考えようと思います。

1 歴史背景を知らないと理解できない箇所の例

ここで例に出すのは、有名な”金持ちの青年”の話です。

すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」
彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。
父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」
この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。
もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」
マタイの福音書 19章16~26節

この箇所は、しばしば、金持ちは誘惑が多いので神の国に入るのは難しい、と理解されます。確かに聖書全体をみるとそういうことは言われていますが、もしそう解釈するのなら、赤字部分で、弟子たちがなぜここまで驚いているのかが説明できません。ここの弟子たちは、”それでは一体誰が救われるのか?金持ちが救われないのなら、誰も救われないではないか!”と言っているかのような驚きです。

ここには、歴史背景が関わってきます。私たちにとっては、金持ちは誘惑が多く神から離れやすい存在かもしれませんが、当時の彼らにとって、金持ちは最も神の祝福を受けていた存在でした。天国への行列があるならば、金持ちはその先頭にいるべき存在とみなされていました。だからこそ、金持ちが救われるのは難しい、不可能であるとイエス様が言われた時、弟子たちは”それでは一体誰が!”といい、イエス様も、”それには人には不可能なことです”と言われたのです。そしてこうして見ていくと、この話は金持ちの救いの難しさ、誘惑の多さを語っているのではなく、人が自分の力で救いを受けることができない厳然たる事実を伝えていることが分かります。

2 地理的文脈を知らないと理解できない例

また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。
わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。
あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。
わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
ヨハネの黙示録 3章14~20節

ここの赤字部分、”熱いか冷たいかであってほしい”というイエス様のことばは有名です。そして多くの場合、この箇所は”熱い信仰を促す箇所”として知られていますが、そう解釈するならば、”冷たくあってほしい”の方が理解できません。ここはどういう意味なのでしょうか?

それを理解するのは、さすがに聖書だけでは不可能でしょう。ここには、この手紙が宛てられたラオディキアの地理的状況が関係しています。ラオディキアは、コロサイ、ヒエラポリスと三つ子都市として知られ、コロサイにおいては冷たい水が清涼水として人々の喉を潤し、ヒエラポリスにおいては熱い水が温泉として人々の疲れを癒していました。一方、小高い丘の上にあったラオディキアは、長い水路を掘って水源を確保しなければならず、そのためそこの水は生ぬるく、多くの不純物を含んだ、汚れた水でした。

このことを知ると、先がつながります。”あなたは生ぬるいので、私は吐き出す=嘔吐する”とイエス様がその後言われた時、彼らは自分たちの生ぬるい水が吐き気を催すほどに飲めない水であることを知っていたがゆえに、イエス様の思いをよりよく理解できたでしょう。また、イエス様が、扉を外からたたくと言われているのは、この教会はうちにキリストがいないという悲惨すぎる状態を表していますが、その悲惨さも、イエス様が嘔吐すると言われるほど嫌悪感を抱いている罪深い状態と一致するでしょう。そしてそれらすべてを理解した先に、神の罪に対する深い憎しみと、それにも関わらず滅ぼさずに悔い改めを呼びかけるあわれみの深さを理解することができるのです。

2つの例を出しましたが、聖書には、聖書だけでは理解が困難な箇所があります。そういった箇所は、”聖書で十分”と言わずに、他の資料の力を借りるべきです。

 

 

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