よく言われます。しかし、次の箇所は、みこころが分かるということをはっきり告げています。
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
ローマ人への手紙 12章2節
このテーマを正確に考える上では、みこころに2つの定義があることを認識することが重要です。詳しくはこちらの記事で書いていますが、みこころには①神が良しとされること=許可されること、②神が喜ばれること、の2つの定義があります。
①が分かるなら、大変なことになります。私たちはこれから神が許可されることを分かるということになります。自分が今の仕事をいつまで続けているのか、何歳まで生きるのか、結婚はするのか、子どもはいるのか、教会の次の牧師は…こういった未来について、”神が許可されること”というみこころを分かるわけがありません。
以下の箇所によれば、神が隠されていることを知ろうとすることは、神のものを自分のものにしようとするという罪です。
隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。
申命記 29章29節
一方で、②が分かるということは、上記の箇所に書かれています。もし②が分からなかったら、それもまた大変なことです。私たちは、神に喜ばれることが何か分からないので、罪を犯してしまうことも避けられません。私たちのうちに住んでいる御霊は、神に喜ばれる生き方を教えてくれません。聖書は、神に喜ばれるように生きるのに不十分ということにもなります。
そんなことはないのです。私たちには①は分からないけれども、②は分かるのです!
良い例はたくさんあります。
- イエス様がいつ来られるかは分からないが、イエス様が来られる日に備えてどう生きることが神に喜ばれるかは分かる
- コロナウイルスの蔓延を神がなぜ許可されたのかは分からないが、その中にあってどう生きることが神に喜ばれることかは分かる
- 自分の結婚相手が誰かは分からないが、どのように結婚について考え、どのように相手を選ぶことが神に喜ばれることかは分かる
具体的にみこころを知る方法については、もちろんすべてのケースは扱えませんが、ヒントについてこちらに書いています。
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