聖書について
聖書
神をどうやって知るのかーそのリソースは、聖書しかありません。聖書は、66巻すべてが神の霊感によるものです。
霊感、権威
霊感とは?よくそれは、芸術家が偉大な作品を作り上げるにあたって受ける”インスピレーション”のようなものとして語られますが、聖書が神の霊感によって書かれたと言うのは、そういう意味ではありません。そうであるならば、聖書は偉大な芸術作品の一つでしかない存在です。しかし、神の霊感によって書かれた聖書は、単に神からのインスピレーションによって書かれた偉大な書ではありません。神の霊感というのは、直訳すると”神が息吹かれた”という意味になります。聖書は、完全に神が意図された、神のことばとして書かれたものです。
つまり、聖書は人がその個性を生かして書かれたものでありながら、背後で神の働きがあったがゆえに、神のことばとして書かれたということです。
神は偽ることも、変わることもありません。それゆえ、神のことばである聖書にも、誤り、矛盾は一切ありません。
なお、誤りがないというのは、誇張表現や比喩表現がないという意味ではありません。たとえば、私たちの間で、10003人が参加した集会に対して、”1万人が参加した”と言っても、それは誤りでなく、大まかな数字にしているだけのことです。”喉から手が出る”と言っても、実際に喉から手が出るわけではありません。”この仕事は誰でもできる”と言うとき、文字通り赤ちゃんも含めて誰にでも理解できる、と言っているのではないのも明らかです。同じように聖書においても、顔がない神に対して”神の御顔”などということはあります。これは、誤りではありません。
また箴言のような書においては、全人類に普遍的にあてはまることとしてでなく、一つの格言、傾向として物事を伝えることがあります。それゆえ、”愚か者はよくしゃべる”と書かれていて、無口な愚か者がいるからと言ってこのみことばが誤りになるわけではありません。
聖書の解釈と適用
前述の通り聖書は神のことばであるので、そこには神の絶対的な意図があります。この”神の意図”を知るのが解釈です。解釈には、いつの時代も変わらない唯一の正解=神の意図があります。神は、優柔不断な人間のように”AもいいがBも捨てがたい!”など、意志の定まっていない方ではないからです。一方で、正しい解釈に基づいて考えられるべき適用には、その時代ごと、その人ごとに無数の答えがあります。”隣人を愛しなさい”というみことばの適用として、愛すべき隣人の答えが人それぞれ無限に存在するのと同じことです。
また、解釈の原則は”オリジナルの著者がオリジナルの読者”に伝えたことであって、そういう意味では宛先が現代の私たちであるみことばはなく、他の誰かに宛てられたみことばが時空を超えて現代の私たちに”語られる”ことはないと信じています。聖霊が私たちにみことばを分かるようにさせる働きは、決してそのみことばが時空を超えて私たちに”語りかける”のではなく、正しい解釈と適用についてはっきり分からせるものです。
解釈の多様性、解釈を誤ること
人間は不完全であるがゆえに、しばしば解釈を誤ったり、解釈内容が人によって分かれたりします。悪気がなかったとしても、誤った解釈に信頼し、伝えることは、神の意図でないものを神のことばとして信頼して広めることであり、それは偶像を造り出すこと、つまり罪です。
しかし、すべての解釈の誤りが、同じレベルの罪ではありません。すべての解釈の誤りが、神が複数存在する、神は三位一体でない、などという根幹的な誤解である解釈の誤りに匹敵するものではないのです。そして、ここからみていくすべての教理は、聖書の正しい解釈から導かれていくべきものです。
私たちは、人はみな永遠に生きると信じています。ただ、キリストを信じない者は地獄で永遠に生き、信じる者は天国で永遠に生きます。
ただ、これらにはステップがあります。そのステップとして最もよく知られているのはキリストの再臨ですが、私たちはキリストの再臨に2つの種類があると信じています。
1つは空中再臨で、これは携挙とも呼ばれます。携挙の際にキリストは、その時地上にいる者から救われている者を天に引き上げます。
地上に残された者には、そこから7年間の患難時代が始まります。携挙が患難時代の後でなく前に起こると信じる根拠は、①7年間の患難時代の後に再臨(携挙)が起こるとすると、”いつ来るか分からない”と言われているはずの再臨の時が、患難時代が7年間と預言されているがゆえに予測できてしまうということ、②黙示録における患難時代の描写には教会が出てこないことから、患難時代の前に教会(すべての信者)が携挙によって引き上げられるはずだということ、③聖書がクリスチャンに対して預言している終末は常に喜ばしいものであり、そこに患難は語られていないことから、やはりクリスチャンは患難時代の前に携挙によって引き上げられるはずである、という点です。
患難時代ののち、キリストは地上に来られます。これが地上再臨であり、そこからキリストは千年間世界を治めます。これが千年王国であり、これは旧約時代に神がイスラエルに対して与えられた約束の字義通りの成就です。
千年王国ののち、キリストは白い御座についてすべての人をさばきます。不信者は地獄で永遠に罰を受け、救われた者は新天新地に入れられ、もはや罪も病気もないからだをもって永遠に神を讃え、神に仕えます。
神について
神
神は、永遠のはじめからおられ、生まれることも死ぬこともないお方です。神は霊であり、見ることはできません。神は父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神で三位一体の方です。三位一体とは、水や卵のように、”変わる”のではなく、それぞれが一体でありながら独立して存在しています。三つは同等同質であり、そこに優劣はありません。しかし役割は異なり、子なる神キリストは父なる神に完全に従います。これは優劣の差があるのでなく、役割の違いです。
神の性質
三位一体は同等同質であるため、ここに記す神の性質は、父、子、聖霊すべてに同じように当てはまります。
全知
過去に起きたこと、未来に起こること、一人一人の人間について、宇宙について、などすべてのことを知っておられます。
全能
ご自分が望むことは、なんでもおできになります。不可能はありません。
偏在
どこにでも存在できます。ただし、キリストは受肉された時、基本的には1箇所にしか存在できない人間と同じようになられました。
主権
世界で起こることに対し、全能の力を持って、望むことを起こし、望まないことは起こらないようにコントロールします。ただし、”望むこと”の定義は重要です。
たとえば、神は人が罪を犯すことを望みませんが、しかしご自身が人間の意志を無視して人に働きかけ、ロボットを扱うように人が罪を犯さないようにさせることもまた望みません。そういう意味では、神は人間の意志によってなされる罪や悪がはびこることを止めるように主権を働かせないことは多々あります。それゆえ、この地に罪や悪がはびこっていることは、神に主権がないためにそれらを止めることができないということではありません。また、神は何が罪であり何が良いことであるかを決める主権も持っています。
みこころ
神の心のことです。上記のこととも関連しますが、私たちは聖書が”みこころ”という言葉を①神が良しとされる=許可されること、②神が喜ばれること、という2つの定義で使っていると信じています。そしてすべてのことは神が許可して起きつつ、歴史や政治を見れば神の喜ばれないことが多々起きたことからも分かるように、①と②はイコールではないこと、それゆえに”みこころでなければ道は閉ざされる”というのは聖書の言っていることではなきと信じています。また、私たちは①のみこころを知ることはできないですが、②のみこころは知ることができると聖書が言っていることを信じています。
良さ
良い方であり、良いことのみを行います。ただし、ここでも”良さ”の定義が重要です。それは罪人である人間が考える良さではなく、神の基準での”良さ”です。そのため、そこにはしばしばズレが生じます。ただし、人間も神のかたちに造られているので、神の良さが良いことであるという感覚をある程度持っています。救われたクリスチャンには、この感覚が日々増えていきます。
義
神は正しい方です。何が罪であり何が善であるかを決めますが、その基準は完全に正しいものです。ここも”良さ”と同じで、正しさの基準は人間ではなく神にあるので、私たちが考える基準とズレが生じることはあります。そこは、人間の側が、有限でありまた罪を持っているがゆえに、正しさの基準が分かっていないことを認める必要があります。
正義
何が罪であり何が善であるかを正しい基準によって決めるだけでなく、実際に罪を犯した者に対しては罰を下し、善を行う者に対しては誉れを与える方です。
愛
愛のお方です。愛は具体的には”恵み”と”あわれみ”に現れます。罪人に対して”ふさわしい罰”を与えないことがあわれみなら、悔い改めた罪人に対して”ふさわしくない救い”を与えるのが恵みです。そしてこれらを総じて愛と言えます。
神の愛は、不信者未信者に対しては、その罪に相応しい罰をいま与えておらず、むしろ日々の食事など受けるべきでない良いものを与え、悔い改めを待っておられることによって。クリスチャンに対しては、上記に加え、将来神の御前で人生の責任を問われる時、そこで相応しい罰を注がず、天国での永遠のいのちを与えることによって現れています。しかし、終わりの時に神は悔い改めない者には正義に従って罰を下されるので、そういう意味で不信者未信者に対する愛は期間限定といえます。
父なる神
ご自身の目的と恵みに基づいてすべてのことを定めておられます。それらすべてのことは、ご自身の栄光のために起こるように定められています。
子なる神、イエスキリスト
永遠のはじめから存在しておられた神です。受肉される前から、民の前にしばしば現れていましたが、時が満ちて、神のあり方を捨てて、処女マリアからユダヤ人の正統な王位継承権を持った人となって生まれました。”神のあり方を捨てて”といいますが、受肉によって神の性質を失ったわけではなく、人となられた時も、完全に神でした。しかし、偏在でなくなる、知らないことがある、などある程度神としての性質は制限された状態で世に来られました。
聖霊なる神
聖霊は、聖書に書かれている真理について、人がはっきりわかるように働きかけます。この聖霊の働きによって、人は聖書の真理を単なる知的理解を超えて、感情と行動にも影響を及ばざるを得ない次元で理解をするようになります。それゆえ、聖霊が働いた結果としてクリスチャンのうちに結ばれる”御霊の実”は、感情や行動にも深く関わるものが多くあります。
御霊の賜物
聖霊は救われたクリスチャンに賜物を与えます。それは聖書に18種類書かれていますが、そのうち、使徒、預言者、奇跡、癒しなど10種類の賜物は、現在も与えられるものではないと信じています。使徒や預言者は教会の土台であり、聖書がまだ完成されていなかったときに、神から直接啓示を受け、それを伝えるために存在していました。奇跡や癒しは、彼らが偽使徒や偽預言者と違い、本当に神から遣わされた存在であることを証明するために与えられていたものでした。聖書が完成されたいま、これらの賜物は必要ありません。
一方、残り8種類の賜物は現在も与えられるものです。それは大きく分けると語る賜物と奉仕する賜物の2種類があります。語る賜物としては、教える賜物、励ます賜物、牧する賜物、伝道する賜物があり、奉仕する賜物としては、与える賜物、あわれむ賜物、助ける賜物、管理する賜物があります。
人間について
人間
神は人間を神のかたちに、男と女に造られました。神の創造力、良さ、義、正義、愛などを、神よりははるかに劣りながらも持つ存在として造られています。これらは人間が罪を犯して堕落した後でさえも、ある程度人間に存在しています。それゆえ、救われていない人もある程度道徳的美点を持っています。
そして神は、被造物のうち人間にだけ命令=律法を与えられました。それゆえ、人間にだけ罪が存在します。
律法
神には何が罪であり何が善であるかを決める権威がありますが、それを明記したものを律法と言います。
律法はモーセ律法が有名ですが、モーセより前、アダムとエバの時代から存在していました。彼らにとっては”善悪を知る知識の木から食べてはならない”というのが律法でした。
そして、この律法がアダムとエバの時代にのみ有効だったように、律法には適用できる期間があります。モーセ律法はモーセの時代に与えられてからずっと語り継がれてきましたが、キリストが十字架で死なれたことによって成就され、その後の人々が守る必要はなくなりました。
その後キリストは復活された後、大宣教命令において、すべての人々に、ご自分が命じた命令ーつまり、キリスト、キリストの代理人である使徒と預言者の語った言葉=新約聖書のすべての命令を守らせるように命じました。いまの私たちはこの新約聖書の命令を守るべき存在です。これをパウロはキリストの律法と呼びます。言ってみれば、私たちは十戒の”殺してはならない、姦淫してはならない”といった命令に従う必要はありませんが、それらは新約聖書にも書かれている命令であるため、結局のところ従わなくてはなりません。ちなみに、安息日や十一献金は新約聖書に書かれていないので、私たちの義務ではありません。
罪
罪は世の中でもある程度認識されていますが、聖書によれば、律法に違反することであり、私たちでいえば新約聖書の命令に違反することです。
未信者にとって最も根底的な罪は、日々の生活で見て体験している被造物を通して神の存在が明らかにされているにも関わらず、神に感謝もせず知ろうともしないことだと、聖書は言っています。
原罪、堕落
永遠のはじめから存在しておられた神です。受肉される前から、民の前にしばしば現れていましたが、時が満ちて、神のあり方を捨てて、処女マリアからユダヤ人の正統な王位継承権を持った人となって生まれました。”神のあり方を捨てて”といいますが、受肉によって神の性質を失ったわけではなく、人となられた時も、完全に神でした。しかし、偏在でなくなる、知らないことがある、などある程度神としての性質は制限された状態で世に来られました。
罰
神は正義の方であるがゆえ、犯した罪に対しては罰を要求します。罪を犯したすべての人間に対する罰は、神の御怒りであり、死でした。この死とは、神から引き離されることを意味します。
なお、この罰は罪を犯したその瞬間に下されるものではありません。そして悔い改めるならば赦しを受け、救われます。しかし悔い改めることがないまま地上の人生を終えたら、またはキリストが来られたら、救いを受けるチャンスはなく、最終的には火の池で永遠に苦しみを受けます。神はその時まで、罰を下さず忍耐して愛を注いでいます。
救いについて
救い
この神の御怒り、死からの救いは、神の怒りが宥められることによって可能になります。神の怒りを完全に宥めることのできるのは、十字架にかかり死なれた宥めのささげ物、キリストのみで、私たちのどんな行為もこの救いを実現させることはできません。
具体的にいえば、私たちの罪をキリストがすべて負われ、罪ゆえの神の御怒りと罰を受けられ、私たちにはキリストの義が着せられることによって、キリストの義を持っているとみなしていただける私たちは神の御怒りから救われ、神との関係が回復するのです。そしてキリストが復活されたことにより、私たちは新しいいのちを持って新しく生まれました。
では、どうしたら私たちをキリストの義をもっているとみなしていただけるのでしょうか。必要なのは行いでなく、信仰です。
恵み、信仰、行い
救いは神の恵みによって、信仰を通してなされます。信仰とは、神のことばである聖書に対する完全な信頼を意味します。
救いは信仰によって与えられるとしばしば言われますが、信仰告白も行いなので、厳密にいえば”恵みによって、信仰が与えられて救われ”ます。人が信仰を持ち、信仰告白をし、従う歩みへと進むことも、御霊が新しい心を与えられたことによって実現することであり、人の力ではなし得ないことであることを私たちは信じています。
それゆえ、救いは人間の意志によって実現するのではなく、神の一方的な選びによって実現します。人間には誇る余地が一切ありません。
しかし一方で、人間には責任もあります。悔い改めて信仰を持つことはすべての人に命じられているからです。そのことを知って、信じて従う決心をし、そのように生きることによって、自分が選ばれていることを確信できるのです。
弟子化
信仰を持つ、つまり神のことばに完全に信頼するのであれば、必ずそのことばに従おうとします。つまり、キリストの弟子になるということです。
聖書はキリストがすべての人にご自分の弟子となることを命じていることが書かれており、クリスチャン=弟子です。また弟子となるためには財産すべてを捨ててキリストに従うことが要求されています。文字通りいつでもすぐにすべての財産を捨てなければならないわけではありませんが、キリストを愛し、その命令を守るために必要であればいつでも財産を捨てるくらいの覚悟でキリストを愛し、信頼し、従うことは、弟子として常に必要であり、それをしなければ弟子になることはできない、とイエス様は言っています。
義認、聖化、栄化
人が神の御怒りから救われるのは、より具体的にいえば、死んだ後に定められているさばきの場において、有罪か義かを判決される際に、義と認められることによって起こります。これを義認と言います。
神に選ばれた人は、義と認められるだけでなく、完全に罪のない、キリストに似た者とされます。これを栄化といい、そこに向けてこの地上において、罪が減り少しずつキリストに似た者とされていくステップを聖化と言います。この聖化は、本当に選ばれ救われた人には良い行いを神が備えられられるがゆえに、必ずついていくものだと聖書は言っています。
救いの確信
自分が救われているかどうか、選ばれているかどうかは、祈ったら与えられる平安によってではなく、行いという実を結んでいるかどうかによって分かります。聖書は、救われている人は義を行うことに特徴づけられ、救われていない人は罪を行うことに特徴づけられる歩みをしていると言います。それゆえ、人が救いを確信するには、聖書が示す良い行いへと励む、努力することが必要です。救いは努力によって得るものではないですが、救いの確信は努力によって得られるというのが、聖書の言っていることです。
教会について
教会
教会は救われた者の集いです。それはキリストが新しく建てられたものであり、旧約聖書の時代には存在せず、キリストの目撃者であり代理人である使徒と預言者という土台の上に建てられたものです。
普遍的教会と地域教会
教会は救われた者の集いです。終わりの時に救われた人々は一つに集められますが、私たちと私たちの教会、関連団体ではその集いを普遍的教会と言い、それをこの地上で現在映し出している、地上に存在している教会を地域教会と言っています。
設計図
教会はキリストが明確な設計図をもって建てられました。まず使徒と預言者を任命し、ご自身のことばを、彼らを用いて聖書という形で書き残させました。次にその聖書を説き明かす存在である、伝道者、牧師、教師を与えられました。それらの教える働きをする指導者によって聖徒たちは教えられ、訓練され、整えられていきます。整えられた結果、奉仕の働きをするようになり、教会は建て上げられていきます。
組織、牧師
設計図にあるように、教会には聖書を教える働きをする指導者が必要不可欠です。聖書では指導者として牧師、監督、長老が同じ存在として書かれており、またこれらのリーダーたちには教える能力と、十分な成熟度が満たすべき資格として具体的に存在することも書かれています。また設計図に入っていないので必須ではありませんが、執事という役割も言われており、執事にも資格があります。そしてすべての信徒は、このリーダーである長老に従うことが命じられています。もちろんそれは盲目的な服従でなく、信頼ゆえの従順です。その教会に属している以上、長老を尊敬し、できる限り従うのが、聖書の示している原則だと私たちは信じています。
★説教
内容
礼典
内容
賛美
ともに集って歌うことも聖書で命じられていることです。命じられているのは歌うことのみなので、奏楽はあってもなくても問題ありませんし、編成なども聖書的な規定はありません。また誤った内容でない限りどんな歌を歌っても良いですが、真理のより深い理解が重要である以上、真理を深く描いた歌詞の賛美こそがより歌われるべきであると考えています。
教会に属する責任について
聖書の多くの命令は、”集まりなさい” “互いに〜〜しなさい” “指導者に従いなさい” “聖餐式、バプテスマを行いなさい” など、教会の中でなければ実践できないものが多く含まれており、教会に属さないことはそういう意味で聖書の多くの命令に違反することになります。そういった点でも、教会に属することはすべてのクリスチャンの責任であると考えています。確かに、教会以外にも、指導者のもとで集まっているミニストリーはありますが、その中で聖餐式、バプテスマ、戒帰などあらゆる命令を全うしている集まりは間違いなく存在せず、もし仮にでも存在するのであれば、それは教会以外のなんでもありません。
会員制について
会員制についてそれ自体を明瞭に書いている聖書箇所はありませんが、聖書の時代の教会にも名簿があったことや、人数の記録があったであろうことは分かります。また、教会における会員制は、牧師の責任の範疇にある信徒がどこまでなのか、信徒が従うべき指導者は誰なのかをはっきりさせる上でも重要です。さらに、会員になる際に、教会の教理や理念をしっかり伝え、同意していただくことで、偽りの教理や罪が入ってくることによって一致や純潔が崩されることをある程度防ぐこともできます。
教会戒帰(除名)について
私たちは聖書が教会における除名の必要を伝えていると信じています。それは会員が罪を犯して悔い改めない時であり、その場合は、教会の一致と純潔を保つために教会戒帰という形で除名をするべきであると信じています。
終末について
終末
私たちは、人はみな永遠に生きると信じています。ただ、キリストを信じない者は地獄で永遠に生き、信じる者は天国で永遠に生きます。
ただ、これらにはステップがあります。そのステップとして最もよく知られているのはキリストの再臨ですが、私たちはキリストの再臨に2つの種類があると信じています。
1つは空中再臨で、これは携挙とも呼ばれます。携挙の際にキリストは、その時地上にいる者から救われている者を天に引き上げます。
地上に残された者には、そこから7年間の患難時代が始まります。携挙が患難時代の後でなく前に起こると信じる根拠は、①7年間の患難時代の後に再臨(携挙)が起こるとすると、”いつ来るか分からない”と言われているはずの再臨の時が、患難時代が7年間と預言されているがゆえに予測できてしまうということ、②黙示録における患難時代の描写には教会が出てこないことから、患難時代の前に教会(すべての信者)が携挙によって引き上げられるはずだということ、③聖書がクリスチャンに対して預言している終末は常に喜ばしいものであり、そこに患難は語られていないことから、やはりクリスチャンは患難時代の前に携挙によって引き上げられるはずである、という点です。
患難時代ののち、キリストは地上に来られます。これが地上再臨であり、そこからキリストは千年間世界を治めます。これが千年王国であり、これは旧約時代に神がイスラエルに対して与えられた約束の字義通りの成就です。
千年王国ののち、キリストは白い御座についてすべての人をさばきます。不信者は地獄で永遠に罰を受け、救われた者は新天新地に入れられ、もはや罪も病気もないからだをもって永遠に神を讃え、神に仕えます。
その他実践神学について
結婚
私たちは、聖書が独身と結婚に優劣をつけていないこと、結婚する場合にクリスチャンはクリスチャンと結婚することを命じていること、夫婦においては妻が夫に従い、夫が妻を自分のからだのように愛するべきであると伝えていることを信じています。もっともこれは男女に優劣や能力、性質の違いがあると聖書が伝えているのではなく、神が定められた役割の違いによるものです。
仕事
私たちは、クリスチャンが仕事において、上にある権威、地上の主人に心から従うことが、罪を命令された時を除く原則だと聖書が言っていると信じています。また聖書は自分の稼ぎで生活し他人の世話にならないことを命じており、また仕事は人間が罪に堕落する前から存在していたものであるがゆえに、仕事は罪に深く加担する内容でない限り、神のみこころにかなった喜ばしいものであると信じています。そして、仕事の種類や内容について、神の前における優劣はなく、仕事の選択においては教会と家族に関する命令を全うできる選択をすること、働き方においては主人や部下に対する態度において聖書の命令を全うすることこそが、最もクリスチャンとして考えるべき点であると考えています。